【経営のプチ勘所vol.53:「論語」を読むシリーズ~第4回:知について(補講)~】

【④第4回:知について(補講)】

立教大学ゼミの恩師「三戸 公先生」の米寿記念講演会(2015年6月)

前回に続いて「徳」の三大要素の『知』について、直接的に徳としての位置付けを離れた言行も含めて『知』という言葉がどう扱われているかについても抜粋してみました。

■子曰く、由、女なんじにこれを知るを教えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ知るなり。《為政篇》

‥(訳)これ子路よ、そなたに「知る」とはどういうことか教えてあげよう。それは他でもない、知っていることは知っている、知らないことは知らないと、その限界をはっきり認識すること、それが「知る」ということなのだ。

⇒兎角知らないことも知ったかぶりをしてしまいがちですが、孔子は『知』に対する素直なスタンスが人として向上する礎となることを示しています。これに関連して、以下の名言(諺)があります。

■子貢問いて曰く、「孔文子は何を以ってこれを文と謂うか」。子曰く、「敏にして学を好み、下問を恥じず。ここを以ってこれを文と謂うなり」。《公冶長篇》

‥(訳)子貢が孔子に尋ねた。「孔文子は、どうして“文”という立派な諡おくりなをもらったのでしょうか」孔子が答えるには、「彼は元々頭が切れる上に、好学心に厚く、敢えて部下に教えを請うことも意に介しなかった。そういう人物であったので、立派な諡を貰うことができたのだ」。

⇒敢えて下問を恥じず…で知られる諺です。立派な人間は知らないことがあると、たとえ地位や年齢が下であろうと聞くことを恥じとしないのです。我以外皆我師は小説「宮本武蔵」を著した吉川英治の有名な言葉ですが、これに通ずる至言として座右の銘にされておられる経営者の方も少なくありません。

■子曰く、三人行けば、必ず我が師あり。その善なる者を択びてこれに従い、その不善なる者にしてこれを改む。《述而篇》

‥(訳)三人で道を歩いているとする。他の二人からは、必ず教えられることがある筈だ。いい点あればそれを見習えばいいし、ダメな点があれば自分を反省する材料にすればよい。

⇒上述の皆師についての孔子の見解です。教わるべきことは必ずしも良いことばかりではなく、反面教師とすれば際限なく学ぶ機会は拡がるもの。私は若い頃、戦時下で学ぶ機会を得ず育った凡庸無知な父親の一面を見下し、素直に言うことを聞かない反抗期を長く過ごしました。もっと早くに自分を修練して、学びの寛容さに気付ければ良い関係が築けたのにと残念に思うこと頻りです。

■子曰く、蓋し知らずしてこれを作る者あらん。我はこれなきなり。多く聞きてその善なる者を択びてこれに従い、多く見てこれを識す。知の次ぎなり。《述而篇》

‥(訳)世の中には、十分な知識もなく、直観だけで素晴らしい見解を打ち出す者もいるであろう。だが、私の方法は違う。私は、様々な意見に耳を傾け、その中から、これぞというものを選んで採用し、常に見聞を広げてそれを記憶に留めるのである。これは最善の方法ではないにしても、次善の策とは言えるのではないか。

⇒決して天才を自認していない孔子、その偉大なる凡人を形づくった次善の勉強方法。英才教育を受け東大・京大卒といったパワーエリートではない多くの皆さま、田舎者の凡人たる私も一押しの学びスタイル、孔子流非凡な『知』の修養法を会得してみませんか。

[`evernote` not found]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です