【経営のプチ勘所vol.59:「論語」を読むシリーズ~第10回:君子とは~】

【⑩第10回:君子とは】

■子曰く、君子は器ならず。《為政篇》

‥(訳)君子というのは、特定の用途にだけに役立つような人間であってはならない。

⇒上に立つ人間はゼネラリストであって、適材適所される側のスペシャリストではないとの観点です。今日、中途半端で深みのないゼネラリストにご批判もあろうかと思いますが、本来は視野が広くバランスの取れた全般経営者こそ組織を健全に動かせる素養を担うべき君子である筈です。

■子曰く、君子は世を没えて名の称せられざるを疾にくむ。《衛霊公篇》

‥(訳)君子というのは、一生の間に、何か一つぐらいは人から称賛されるような仕事をしたいと願っているものだ。

⇒人の一生において仕事は自分を高めた成果を測る生産的なモノサシであり、特に世界で唯一四千年の歴史を残す中国社会では名を遺すことの意味合いが大きい訳です。

■子夏曰く、君子に三変あり。これを望めば儼厳然たり。これに即けば温なり。その言を聴けば激し。《子帳篇》

‥(訳)子夏が言った。君子は三度姿を変える。遠くから見ると、近寄り難いような厳しさがある。近寄ってみると、意外に温かい。ところが、言葉を聞くと、すこぶる手厳しい。

⇒先に「徳」の要素として、論語の『知』『仁』『勇』に加え、孫子の兵法の『信』(心服)と『厳』(威厳)を加えた五つを指摘しました。ここでは君子に触れた姿の特徴が指し示されています。

■子曰く、君子は言を以って人を挙げず。人を以って言を廃せず。《衛霊公篇》

‥(訳)君子は、発言を聞いただけで相手を買いかぶるようなことはしない。また、相手の人を見て、折角の発言まで無視するようなこともしない。

⇒有言実行を肝としつつも、発言そのものに対しては先入観を持たず客観的な目線でもって公平に評価する姿勢を持つことが示されている。

■子曰く、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲ゆうじょうして升下しょうかし、而して飲ましむ。その争いや君子なり。《八脩篇》

‥(訳)君子は、人と争わないものだ。強いてあげれば弓の競技ということになろうか。ともに堂上にのぼって主催者に挨拶し、堂からおりると、互いに会釈して先を譲り合う。競技が終わると、勝者が敗者に罰杯を差し出す。これこそ君子の争いに相応しい。

⇒礼に始まり礼に終わる、武道の心得ある人には備わる気質であろうか。礼節を重んじる儒学思想の中で培われた道の世界観、小生も剣道二段にて競技はすれども、争いごとや喧嘩は大嫌いです。

■子曰く、富みと貴きとは、これ人の欲する所なり。その道を以ってせざれば、これを得るとも処らざるなり。貧しきと賤しきとは、これ人の悪む所なり。その道を以ってせざれば、これを得るとも去らざるなり。君子は仁を去りて、悪くにか名を成さん。君子は終食の間も仁に違うことなし。造次ぞうじにも必ずここに於いてし、顛沛てんぱいにも必ずここに於いてす。《里仁篇》

‥(訳)人間であるからには、誰でも富貴な生活を手に入れたいと思う。だが、真っ当な生き方をして手に入れたものでなければ、しがみつくべきではない。逆に貧賤な生活は、誰でも嫌うところである。だが、真っ当な生き方をしていても、そういう状態に陥った時は、無理に避けようとしてはならない。君子の目標とすべきは、仁である。仁を捨てて、どうして名誉を手にすることができようか。君子は片時も仁を離れてはならない。とっさの場合も仁、蹴躓いて倒れ掛かった場合にも仁、いついかなる場合も仁を忘れないことだ。

⇒富貴・貧賤という現象に一喜一憂することなく、真っ当な『仁』者たる生き方こそ有意義な人生ということを、自信をもって示してくれています。

【経営のプチ勘所vol.58:「論語」を読むシリーズ~第9回~君子と小人(その2)~】

【⑨第9回:君子と小人(その2)】

10名のCARP選手感染により今週末の阪神戦が延期(中止)となり、益々不安高まる広島市内を脱出してコロナ疎開中…八幡高原の山小屋ステイ5日目の朝です。西中国山地最奥ゆえに中々雨雲が抜けず、今朝も天気予報に反して雨が降り頻っております。

今日の記事は先週に続いて「君子と小人」、前稿で書き切れなかった観点を(その2)として補足したいと思います。なお、写真は山小屋「湖稜庵」の屋外に自前で造った五右衛門風呂、一昨日焚口のコンクリート工事をして乾いてきたみたいなので、雨が止んだら新緑の露天♨風呂を愉しみたいと思います。

■子曰く、君子は上達す。小人は下達す。《憲問篇》

‥(訳)君子は物事の本質を考える。小人は末節にとらわれる。

⇒前回に続いて、立派な人間たる君子と取るに足らぬ小人のレベルの違いが認められています。ダメ上司の枝葉末節にうんざりの部下、学卒離職者が多い最近の傾向を若者の我慢の無さに設えて、上司の至らなさを省みない会社が意外に多いのではないでしょうか?

■子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。《衛霊公篇》

‥(訳)責任を自覚しているのが君子、他人に転嫁するのが小人である。

⇒前言を受けて、言うに及ばずですね。次に過ちに関し、小人と君子の違いを示します。

■子夏曰く、小人の過つや、必ず文かざる。《子帳篇》

■子貢曰く、君子の過つや、日月の食の如し。過つや人皆これを見る。更むるや人皆これを仰ぐ。《子帳篇》

‥(訳)子夏が言った。小人は、失敗をしでかすと、必ず言い訳をする。子貢が言った。君子の犯す過ちは、日蝕や月蝕のようなものである。過ちを犯すと、全ての人が注目するし、それを改めると、全ての人が仰ぎ見る。

⇒小人の言い訳は論外ながら、多くの人から注目される立ち位置にある君子は過ちも目立つ訳で、影響力も大きいからこそ間違ったら決して誤魔化さずに正当に反省して直すべきと説かれています。

■孔子曰く、君子に三畏あり、天命を畏おそれ、大人だいじんを畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。《季氏篇》

‥(訳)君子、は三つのものに敬虔な態度で接する。則ち、天命と大人と、そして聖人の教えである。ところが小人は、天命に対して敬虔さを欠いている。大人に対しても馴れ馴れしい態度をとる。聖人の教えは鼻であしらう。

⇒もはや君子と小人の差は埋まりようもない大差ですが、私は小人を自覚して向上に努める姿勢を貫き続ければ、やがて君子レベルに成長できるものと確信しています。

■子曰く、色はげしくして内やわらかなるは、これを小人に譬うれば、それなお穿愈せんゆの盗のごときか。《陽貨篇》

‥(訳)見かけは厳しくて頼もしそうだが、中味はぐにゃぐにゃで主体性に欠ける人間、それは小人を例にとると、最もみみっちいコソ泥のようなものだ。

⇒『仁』を中心とした徳世実現の足枷がこうした見掛け倒しの小人、下手に影響力を持っているだけに孔子は痛烈な言葉をもって批判しています。

■子曰く、郷原きょうげんは徳の賊なり。《陽貨篇》

‥(訳)えせ君子は、徳の泥棒である。

⇒この稿の最後に郷原について付け加えたいと思います。孔子は素晴らしい人間は中庸を貫けると言っていますが、一見中庸に見えてそうではない(見分けがつけ難い)のが郷原で、あっちに行ったりこっちに来たり自分の得になりそうな方にブレまくる人間のこと。私の関わった某政府系組織にも、保身のために他人を貶めて自分を売り込むお手柄頂戴主義の小役人が居て悩まされたものです。因みに、その中庸について語っているのが以下です。

■子曰く、中庸の徳たるや、それ至れるかな。民鮮すくなきこと久し。《雍也篇》

‥(訳)中庸の徳は、まことに素晴らしい。しかし、この美徳も、民間で廃れてしまってから、既に久しい。

⇒混迷の春秋戦国時代にあって、理想とする周王朝と比べて廃れたことを嘆く件です。

【経営のプチ勘所vol.57:「論語」を読むシリーズ~第8回:君子と小人(その1)】

【⑧第8回:君子と小人(その1)】

今週末の広島は、①昨日の梅雨入り、②今日からのコロナ緊急事態宣言施行と、想定外の暗いニュースに晒されています。こんなご時世だからこそ、 上に立つべきリーダーは 目先の利益(cf.小人)を超えた高邁な理想を追求する「君子」のあるべき姿を示して欲しいものです。

■子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。《里仁篇》

‥(訳)行動に際して、義を優先させるのが君子、利を優先させるのは小人である。

⇒小人とは君子の逆、取るに足らない人間のことを指す。「論語」から“義”を学んだ渋沢栄一は、経済の仕組みと組み合わせ“義理合一”を目指し、著書「論語と算盤」を著しました。また、東京養育院の設立や経済活動の第一線から退いた後も、生涯にわたって福祉を実践した渋沢翁は決して利益優先の小人ではなく、君子そのものであった。

■子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人はこれに反す。《願淵篇》

‥(訳)君子は人の善行は援助するが、悪事には手を貸さない。小人は逆である。

⇒前記のことが、善悪との絡みから表わされている。私は経営理念について、①存在意義、②経営姿勢、③行動規範の3つが不可欠と説いていますが、②正しいことを正しく行うことの意義に通ずるところです。

■子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。《子路篇》

‥(訳)君子は、協調性に富んでいるが雷同はしない。小人は、雷同はするけれども協調性には欠けている。

⇒不和雷同として知られる有名なフレーズですが、悪事であっても自分の興味や儲け話などに乗せられて徒党を組んで動く小人の雷同から距離を置きたいものです。

■子曰く、君子は泰にして驕らず。小人は驕りて泰ならず。《子路篇》

‥(訳)君子は、自信を持ちながら、しかも謙虚に振る舞う。小人は、傲慢に振る舞いながら、そのくせ自信に欠けている。

⇒確固たる信念の有無が君子と小人を分かつことが示されています。子路篇では、社長と部下に擬えた次のような言葉があります。

■子曰く、君子は事つかえ易くして説よろこばしめ難し。これを説ばしむるに道を以ってせざれば、説ばざるなり。その人を使うに及びては、これを器にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。これを説ばしむるに道を以ってせずと雖も、説ぶ。その人を使うに及びては、備わらんことを求む。《子路篇》

‥(訳)君子に仕えるのは易しいが、気に入って貰えるのは難しい。何故なら、仕える時にはうまく能力を引き出して貰えるが、きちんと道理に適ったことをしなければ気に入って貰えないからである。これに対し、小人に仕えるのは難しいが、気に入って貰えるのは易しい。何故なら、見境なく仕事を押し付けて責任ばかり追及してくるが、道理に外れたことをしても気に入って貰えるからである。

⇒経営者の皆さん如何でしょうか?ダメ社長にダメな社員、そんな荒んだ組織を反面教師として、道理則ち経営理念を大切にして素晴らしい会社を創りたいものですね。

【経営のプチ勘所vol.56:「論語」を読むシリーズ~第7回:君子と学】

【⑦第7回:君子と学】

今回から尊敬される経営者にはどんな態度が求められるのか?
古来、帝王学の中で「君子」として語られるフレーズの中から、先ず先週の“学”の観点から抽出してみました。

■子曰く、君子重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠心を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。過ちては則ち改むるに憚ることなかれ。《学而篇》

‥(訳)君子というのは、態度が重厚でなかったら、威厳が備わってこない。学問をすれば、それだけ頑迷さを免れることができる。常に誠実であることを旨とする。友を選ぶときには、自分より優れた人物を選ぶ。過ちを犯したことに気付いたら、すぐに改める。

⇒君子(立派な人間)たる経営者の威厳のバックボーンとして、学問による柔軟さと誠実さの重要性が説かれています。第4回の「知」に係る原則(下問・我師)に加え、優れた友を選ぶ姿勢が必要としています。なお、仁者は人を選ばないとありますが、私の理解では自分を磨いて『仁』に到る過程で良い刺激を受けるための選別と考えます。

■孔子曰く、益者三友、損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便倭を友とするは損なり。《季氏篇》

‥(訳)付き合って為になる友人が三種類、為にならない友人が三種類いる。為になるのは、剛直な人、誠実な人、博識な人である。逆に、易きにつきたがる人、人当たりの良い人、口先だけの人、これは付き合っても為にならない。

⇒上記の友について、益・損それぞれ対極の特徴を示して、為になる交友関係のポイントが示されています。

■子曰く、君子は食飽くことを求むるなく、居安きを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。《学而篇》

‥(訳)君子は、食べ物や住まいについて、ことさら贅沢を願わず、行動は機敏に、発言は慎重を旨とする。そして、立派な人物を見習って我が身を正すのである。こうあってこそ、学問を好む人間と言えよう。

⇒君子の食・住に対する志向、軽口否定の有言実行、前記同様に謙虚に人から学ぶ姿勢の大切さが説かれています(以下三項も同様の内容を指摘)。

■子貢、君子を問う。子曰く、「まずその言を行いて、而る後にこれに従う」。《為政篇》

‥(訳)子貢が君子の条件について尋ねた。孔子が答えるには、「発言する前に、先ず実行がなければならない。言葉は後からついていくものだ」。

■子曰く、君子は言に訥とつにして、行いに敏ならんことを欲す。《里人篇》

‥(訳)君子は能弁である必要はない。それよりも機敏な行動を心掛けたい。

■子曰く、君子はその言のその行ないに過ぐるを恥ず。《憲問篇》

‥(訳)君子は、言葉だけが先走って行動が伴わないことを恥とする。

【経営のプチ勘所vol.55:「論語」を読むシリーズ~第6回:学びについて~】

【⑥第6回:学びについて】

今週は「学び」の概論についてまとめてみました。コロナ禍のゴールデンウィーク、ステイホームの要請下で天気も不安定なので…日頃読めない分厚い本でも読んで過ごしませんか(写真:LIFE SHIFT等は以前読んだ本ですが、生き方の道標として良い本ですよ)。

■子曰く、性、相近し、習、相遠し。《陽貨篇》

‥(訳)生まれながらの素質に、それほど違いがある訳ではない。その後の習慣の違いによって、大きな差がついていくのである。

⇒孔子が生涯学習の祖であることは初稿に採り上げました。当時の学びの対象は歴史とされますが、そうした古の叡知を学べるのが書物です。私たちは義務教育以降、社会人になるまで目的や対象も曖昧なままプログラムとして学びを半強制的に強いられるため、学卒後に学習を続ける方は少ないのが実態でしょう。私は大学ゼミの恩師、三戸公先生に出会って学問の意味を教わりました。就職して多忙にかまけ、折角基礎を教わった経営学書から遠ざかっていましたが脱サラを機会にリセット、中小企業診断士の稼業でより良い支援ができるよう勉強を続けて来ました。今日振り返るに、この無形の積み重ねが自信にも繋がっていることを実感します。これからも孔子に習って、生涯にわたって勉学向上に努めて自分を向上させていきたいものです。以下では、「論語」の学びに係るフレーズを幾つか抜粋して紹介します。

■子曰く、学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ち殆あやうし。《為政篇》

‥(訳)読書にばかり耽って思索を怠ると、折角の知識が身につかない。逆に、思索にばかり耽って読書を怠ると、独断に陥ってしまう。

⇒三戸先生から経営学は人生の学ということを教わりました。また、読書で得た知識を実践して活かしてこそ価値があると、私の中小企業診断士としての而立を喜んで頂きました。三戸先生、孔子と人生の羅針盤たる師があることに感謝しています。

■子曰く、黙してこれを識しるし、学びて厭わず、人を諧おしえて倦まず。《述而篇》

‥(訳)黙々として思索を重ねる。学問に励んで飽きることがない。人に教えて疲れることを知らない。これ位のことなら、私のような人間にも無理なくできる。

⇒孔子の生き方が謙虚に語られていますが、何より学問を希求することが“楽しい”という境地(知<好<楽)が素直に表現されていて素晴らしい。

■子、子夏に謂いて曰く、「女なんじ、君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ」。《雍也篇》

‥(訳)孔子が子夏を戒めて、こう語った。「学ぶことの目的は、自分を向上させることにある。世間の評判ばかり気にするような人間にはなるな」

⇒学校教育や出世の階段で、とかく学問は競争選別の手段に成り下がってしまいがちですが、本当の目的についての孔子のストレートな指摘すっきりします。

■子曰く、古の学ぶ者は己のためにし、今の学ぶ者は人のためにす。《憲問篇》

‥(訳)昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする。

⇒私からすれば何れも昔ですが、学問に取り組む真の意義が語られています。

■孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学んでこれを知る者は次なり。困くるしみてこれを学ぶはまたその次なり。困しみて学ばざるは、民にしてこれを下となす。《季氏篇》

‥(訳)生まれながら知能に恵まれている者は最高である。学んで身につけた者はその次である。必要に迫られて学ぶ者は更にその次である。必要に迫られながら学ぼうとしない者は最低である。

⇒天賦の才のない私は“次”を目指して学習に励んでいます。経営者とお話する中で、“その次”の学びを促すのが我が務めと考えて指導させて頂いている手前、自ずと“下”の方とはお付き合いがありません。

■子曰く、学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る。《泰伯篇》

‥(訳)学問というのは、必死になって追いかけていくものだ。それでもなお目標を見失ってしまう恐れがある。

⇒学求姿勢についての語りですが、孔子のように“楽しい”境地ではないにせよ、自分を高める弛まぬ努力の必要性が指摘されています。

■子曰く、三年学びて、穀に至らざるは、得易からず。《泰伯篇》

‥(訳)三年もみっちり勉強すれば、誰でも仕官の口ぐらいは見つけることができる。

⇒私の場合も、大学ゼミに3年在籍、中小企業診断士資格取得に2年、凡人でもみっちり勉強を続ければそれなりの成果が得られることを実感します。長い人生の中の僅か3年、勉強するか!しないか?皆さんはどうお考えでしょう。