【経営のプチ勘所vol.61:「論語」を読むシリーズ~第12回:逆境下での経営】

【⑫第12回:逆境下での経営】

広島県庁リモート会議より

コロナ禍でZoom利用等からビジネススタイルも大きく変わりつつありますが、変化はリスクとチャンスの両面を持ち合わせています。現下の環境激変をきっかけに確り下地を固めて、来るべき飛躍を見据えた経営を目指しましょう。

■子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫しぼむに後るるを知るなり。《泰伯篇》

‥(訳)冬の寒さが厳しくなったときに、はじめて松や柏がいつまでも凋しぼまないでいることが確認できるのである。

⇒目下、想定外のコロナ禍が続いて多くの企業が逆境に晒され、市場からの退出(倒産・廃業)を余儀なくされる会社も少なくありません。こうした自己責任に帰さない経営環境の悪化に対しても、一定の経営体力を保持していれば耐え抜いて生き残っていくことが可能な訳です。普段から逆境に備えた内部留保を蓄積し、財務上での自己資本を充実しておくこと(最低20%~理想50%超)が肝要です。

樹々の世界において常緑の松柏は、新緑や紅葉に彩られる広葉樹と比べて決して派手ではありませんが、寒い冬でも枯れることなく緑の葉をつけ積雪に耐えています。攻守のバランスの取れた経営を貫き、長きに亘る繁栄を目指して貰いたいものです。

■子曰く、人、遠き慮りなければ、必ず近く憂いあり。《衛霊公篇》

‥(訳)遠い先のことまで対策を立ててかからないと、必ず足もとから崩れてしまう。

⇒現代日本語「遠慮」の語源でありながら、全く違う意味合いを感じさせる至言です。これは遠望深慮と表現すればわかり易いと思いますが、目先の“短期”的な問題に捕らわれて右往左往するのではなく、もっと先を見越した“中長期”的な視点を持つことの大切さを訓えてくれます。

ソフトバンクの孫正義会長は永年こうした考え方を貫いてきた経営者として有名ですが、曰く「目の前の波の高さが数メートルに及ぶ大荒れの海でも、目線を水平線の先に置けば目標はブレずに安定している」として、次々と新事業を計画してM&Aにより企業成長を果たしてきた訳です。

経営の世界では、長期=戦略的な“改革”レベルの判断のもとに、短期=戦術的な“改善”レベルの実践活動を積み重ねていくPDCA活動が求められます。因みに、経営判断に際しては、著名な経営書『ビジョナリー・カンパニー』~時代を超える生存の法則(ジム・コリンズ著)~で「Orの抑圧」をはねのけ、「Andの才能」を活かす…という有名なフレーズがある通り、私自身の指導方針として、決して短期か長期かという二者選択の話ではなくて全体最適の視点を忘れず理想を掲げ統合経営を目指すべきとアドバイスさせて頂いております。

※なお、本稿「論語」シリーズを受けて、来月(7月)からは「経営名著」シリーズの復刻にて更に経営を掘り下げてお伝えしたいと考えております。

【経営のプチ勘所vol.60:「論語」を読むシリーズ~第11回:君子の道】

【⑪第11回:君子の道】

■子、子産を謂う、「君子の道四あり。その己を行なうや恭。その上に事うるや敬。その民を養うや恵。その民を使うや義。《公冶長篇》

‥(訳)孔子が子産を批評してこう語った。「あの方は、君子としての資格を四つも備えていた。第一に、態度が謙虚であった。第二に、君主に対しては敬意を忘れなかった。第三に、人民に対して恩恵を施した。第四に、人民を使役するのに節度を心得ていた」

⇒孔子の君子評たる恭・敬・恵・義、人を引き付ける魅力ある経営者として備えるべき資質と言えるでしょう。

■曾子、疾あり。孟敬子これを問う。曾子言いて曰く、「鳥のまさに死せんとするや、その鳴くこと哀し。人のまさに死せんとするや、言や善し。君子の道に貴ぶ所のものは三つ。容貌を動かしてはここに暴慢を遠ざく。顔色を正してはここに信に近づく。辞気を出だしてはここに啚倍ひばいを遠ざく。籩豆へんとうの事は則ち有司存せり」。《泰伯篇》

‥(訳)曾子は病が改まったとき、見舞いに来た孟敬子に言った。「鳥は死に際になると、ひときわ哀しい声で鳴く、人間は死んでいくとき嘘のない言葉を言い残す、と言われています。どうか私の話すことをしっかりと聞いてください。君子の守るべき礼には、大切なことが三つあります。第一は、立居振舞をきちんとすること。そうすれば粗暴さから免れることができます。第二に、表情を正しくすること。そうすれば信頼感を高めることができます。第三に、言葉遣いに気を付けること。そうすれば軽薄さから遠ざかることができます。祭祀の運営の如きは、係の役人に任せておけば宜しいでしょう」

⇒容貌・顔色・辞気に気を付けること、これが君子たる礼節の在り方と言われています。

■孔子曰く、君子に三戒あり。少き時は、血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。その壮なるに及んでは、血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。その老ゆるに及んでは、血気既に衰う、これを戒むること得に在り。《季氏篇》

‥(訳)君子は生涯に三つのことを警戒しなければならない。青年時代は血気が未だ定まらないので、色欲を警戒する。壮年期には血気が満ち溢れてくるので、闘争心を警戒する。老年期には血気が衰えてくるので、物欲を警戒する。

⇒君子も世俗に生きる人間、出家僧侶のように欲から完全に離れた存在ではないので、色・闘・物の3つの欲を自制して人格を高めていかなければならないとされます。

【経営のプチ勘所vol.59:「論語」を読むシリーズ~第10回:君子とは~】

【⑩第10回:君子とは】

■子曰く、君子は器ならず。《為政篇》

‥(訳)君子というのは、特定の用途にだけに役立つような人間であってはならない。

⇒上に立つ人間はゼネラリストであって、適材適所される側のスペシャリストではないとの観点です。今日、中途半端で深みのないゼネラリストにご批判もあろうかと思いますが、本来は視野が広くバランスの取れた全般経営者こそ組織を健全に動かせる素養を担うべき君子である筈です。

■子曰く、君子は世を没えて名の称せられざるを疾にくむ。《衛霊公篇》

‥(訳)君子というのは、一生の間に、何か一つぐらいは人から称賛されるような仕事をしたいと願っているものだ。

⇒人の一生において仕事は自分を高めた成果を測る生産的なモノサシであり、特に世界で唯一四千年の歴史を残す中国社会では名を遺すことの意味合いが大きい訳です。

■子夏曰く、君子に三変あり。これを望めば儼厳然たり。これに即けば温なり。その言を聴けば激し。《子帳篇》

‥(訳)子夏が言った。君子は三度姿を変える。遠くから見ると、近寄り難いような厳しさがある。近寄ってみると、意外に温かい。ところが、言葉を聞くと、すこぶる手厳しい。

⇒先に「徳」の要素として、論語の『知』『仁』『勇』に加え、孫子の兵法の『信』(心服)と『厳』(威厳)を加えた五つを指摘しました。ここでは君子に触れた姿の特徴が指し示されています。

■子曰く、君子は言を以って人を挙げず。人を以って言を廃せず。《衛霊公篇》

‥(訳)君子は、発言を聞いただけで相手を買いかぶるようなことはしない。また、相手の人を見て、折角の発言まで無視するようなこともしない。

⇒有言実行を肝としつつも、発言そのものに対しては先入観を持たず客観的な目線でもって公平に評価する姿勢を持つことが示されている。

■子曰く、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲ゆうじょうして升下しょうかし、而して飲ましむ。その争いや君子なり。《八脩篇》

‥(訳)君子は、人と争わないものだ。強いてあげれば弓の競技ということになろうか。ともに堂上にのぼって主催者に挨拶し、堂からおりると、互いに会釈して先を譲り合う。競技が終わると、勝者が敗者に罰杯を差し出す。これこそ君子の争いに相応しい。

⇒礼に始まり礼に終わる、武道の心得ある人には備わる気質であろうか。礼節を重んじる儒学思想の中で培われた道の世界観、小生も剣道二段にて競技はすれども、争いごとや喧嘩は大嫌いです。

■子曰く、富みと貴きとは、これ人の欲する所なり。その道を以ってせざれば、これを得るとも処らざるなり。貧しきと賤しきとは、これ人の悪む所なり。その道を以ってせざれば、これを得るとも去らざるなり。君子は仁を去りて、悪くにか名を成さん。君子は終食の間も仁に違うことなし。造次ぞうじにも必ずここに於いてし、顛沛てんぱいにも必ずここに於いてす。《里仁篇》

‥(訳)人間であるからには、誰でも富貴な生活を手に入れたいと思う。だが、真っ当な生き方をして手に入れたものでなければ、しがみつくべきではない。逆に貧賤な生活は、誰でも嫌うところである。だが、真っ当な生き方をしていても、そういう状態に陥った時は、無理に避けようとしてはならない。君子の目標とすべきは、仁である。仁を捨てて、どうして名誉を手にすることができようか。君子は片時も仁を離れてはならない。とっさの場合も仁、蹴躓いて倒れ掛かった場合にも仁、いついかなる場合も仁を忘れないことだ。

⇒富貴・貧賤という現象に一喜一憂することなく、真っ当な『仁』者たる生き方こそ有意義な人生ということを、自信をもって示してくれています。

【経営のプチ勘所vol.58:「論語」を読むシリーズ~第9回~君子と小人(その2)~】

【⑨第9回:君子と小人(その2)】

10名のCARP選手感染により今週末の阪神戦が延期(中止)となり、益々不安高まる広島市内を脱出してコロナ疎開中…八幡高原の山小屋ステイ5日目の朝です。西中国山地最奥ゆえに中々雨雲が抜けず、今朝も天気予報に反して雨が降り頻っております。

今日の記事は先週に続いて「君子と小人」、前稿で書き切れなかった観点を(その2)として補足したいと思います。なお、写真は山小屋「湖稜庵」の屋外に自前で造った五右衛門風呂、一昨日焚口のコンクリート工事をして乾いてきたみたいなので、雨が止んだら新緑の露天♨風呂を愉しみたいと思います。

■子曰く、君子は上達す。小人は下達す。《憲問篇》

‥(訳)君子は物事の本質を考える。小人は末節にとらわれる。

⇒前回に続いて、立派な人間たる君子と取るに足らぬ小人のレベルの違いが認められています。ダメ上司の枝葉末節にうんざりの部下、学卒離職者が多い最近の傾向を若者の我慢の無さに設えて、上司の至らなさを省みない会社が意外に多いのではないでしょうか?

■子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。《衛霊公篇》

‥(訳)責任を自覚しているのが君子、他人に転嫁するのが小人である。

⇒前言を受けて、言うに及ばずですね。次に過ちに関し、小人と君子の違いを示します。

■子夏曰く、小人の過つや、必ず文かざる。《子帳篇》

■子貢曰く、君子の過つや、日月の食の如し。過つや人皆これを見る。更むるや人皆これを仰ぐ。《子帳篇》

‥(訳)子夏が言った。小人は、失敗をしでかすと、必ず言い訳をする。子貢が言った。君子の犯す過ちは、日蝕や月蝕のようなものである。過ちを犯すと、全ての人が注目するし、それを改めると、全ての人が仰ぎ見る。

⇒小人の言い訳は論外ながら、多くの人から注目される立ち位置にある君子は過ちも目立つ訳で、影響力も大きいからこそ間違ったら決して誤魔化さずに正当に反省して直すべきと説かれています。

■孔子曰く、君子に三畏あり、天命を畏おそれ、大人だいじんを畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。《季氏篇》

‥(訳)君子、は三つのものに敬虔な態度で接する。則ち、天命と大人と、そして聖人の教えである。ところが小人は、天命に対して敬虔さを欠いている。大人に対しても馴れ馴れしい態度をとる。聖人の教えは鼻であしらう。

⇒もはや君子と小人の差は埋まりようもない大差ですが、私は小人を自覚して向上に努める姿勢を貫き続ければ、やがて君子レベルに成長できるものと確信しています。

■子曰く、色はげしくして内やわらかなるは、これを小人に譬うれば、それなお穿愈せんゆの盗のごときか。《陽貨篇》

‥(訳)見かけは厳しくて頼もしそうだが、中味はぐにゃぐにゃで主体性に欠ける人間、それは小人を例にとると、最もみみっちいコソ泥のようなものだ。

⇒『仁』を中心とした徳世実現の足枷がこうした見掛け倒しの小人、下手に影響力を持っているだけに孔子は痛烈な言葉をもって批判しています。

■子曰く、郷原きょうげんは徳の賊なり。《陽貨篇》

‥(訳)えせ君子は、徳の泥棒である。

⇒この稿の最後に郷原について付け加えたいと思います。孔子は素晴らしい人間は中庸を貫けると言っていますが、一見中庸に見えてそうではない(見分けがつけ難い)のが郷原で、あっちに行ったりこっちに来たり自分の得になりそうな方にブレまくる人間のこと。私の関わった某政府系組織にも、保身のために他人を貶めて自分を売り込むお手柄頂戴主義の小役人が居て悩まされたものです。因みに、その中庸について語っているのが以下です。

■子曰く、中庸の徳たるや、それ至れるかな。民鮮すくなきこと久し。《雍也篇》

‥(訳)中庸の徳は、まことに素晴らしい。しかし、この美徳も、民間で廃れてしまってから、既に久しい。

⇒混迷の春秋戦国時代にあって、理想とする周王朝と比べて廃れたことを嘆く件です。

【経営のプチ勘所vol.57:「論語」を読むシリーズ~第8回:君子と小人(その1)】

【⑧第8回:君子と小人(その1)】

今週末の広島は、①昨日の梅雨入り、②今日からのコロナ緊急事態宣言施行と、想定外の暗いニュースに晒されています。こんなご時世だからこそ、 上に立つべきリーダーは 目先の利益(cf.小人)を超えた高邁な理想を追求する「君子」のあるべき姿を示して欲しいものです。

■子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。《里仁篇》

‥(訳)行動に際して、義を優先させるのが君子、利を優先させるのは小人である。

⇒小人とは君子の逆、取るに足らない人間のことを指す。「論語」から“義”を学んだ渋沢栄一は、経済の仕組みと組み合わせ“義理合一”を目指し、著書「論語と算盤」を著しました。また、東京養育院の設立や経済活動の第一線から退いた後も、生涯にわたって福祉を実践した渋沢翁は決して利益優先の小人ではなく、君子そのものであった。

■子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人はこれに反す。《願淵篇》

‥(訳)君子は人の善行は援助するが、悪事には手を貸さない。小人は逆である。

⇒前記のことが、善悪との絡みから表わされている。私は経営理念について、①存在意義、②経営姿勢、③行動規範の3つが不可欠と説いていますが、②正しいことを正しく行うことの意義に通ずるところです。

■子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。《子路篇》

‥(訳)君子は、協調性に富んでいるが雷同はしない。小人は、雷同はするけれども協調性には欠けている。

⇒不和雷同として知られる有名なフレーズですが、悪事であっても自分の興味や儲け話などに乗せられて徒党を組んで動く小人の雷同から距離を置きたいものです。

■子曰く、君子は泰にして驕らず。小人は驕りて泰ならず。《子路篇》

‥(訳)君子は、自信を持ちながら、しかも謙虚に振る舞う。小人は、傲慢に振る舞いながら、そのくせ自信に欠けている。

⇒確固たる信念の有無が君子と小人を分かつことが示されています。子路篇では、社長と部下に擬えた次のような言葉があります。

■子曰く、君子は事つかえ易くして説よろこばしめ難し。これを説ばしむるに道を以ってせざれば、説ばざるなり。その人を使うに及びては、これを器にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。これを説ばしむるに道を以ってせずと雖も、説ぶ。その人を使うに及びては、備わらんことを求む。《子路篇》

‥(訳)君子に仕えるのは易しいが、気に入って貰えるのは難しい。何故なら、仕える時にはうまく能力を引き出して貰えるが、きちんと道理に適ったことをしなければ気に入って貰えないからである。これに対し、小人に仕えるのは難しいが、気に入って貰えるのは易しい。何故なら、見境なく仕事を押し付けて責任ばかり追及してくるが、道理に外れたことをしても気に入って貰えるからである。

⇒経営者の皆さん如何でしょうか?ダメ社長にダメな社員、そんな荒んだ組織を反面教師として、道理則ち経営理念を大切にして素晴らしい会社を創りたいものですね。

【経営のプチ勘所vol.56:「論語」を読むシリーズ~第7回:君子と学】

【⑦第7回:君子と学】

今回から尊敬される経営者にはどんな態度が求められるのか?
古来、帝王学の中で「君子」として語られるフレーズの中から、先ず先週の“学”の観点から抽出してみました。

■子曰く、君子重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠心を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。過ちては則ち改むるに憚ることなかれ。《学而篇》

‥(訳)君子というのは、態度が重厚でなかったら、威厳が備わってこない。学問をすれば、それだけ頑迷さを免れることができる。常に誠実であることを旨とする。友を選ぶときには、自分より優れた人物を選ぶ。過ちを犯したことに気付いたら、すぐに改める。

⇒君子(立派な人間)たる経営者の威厳のバックボーンとして、学問による柔軟さと誠実さの重要性が説かれています。第4回の「知」に係る原則(下問・我師)に加え、優れた友を選ぶ姿勢が必要としています。なお、仁者は人を選ばないとありますが、私の理解では自分を磨いて『仁』に到る過程で良い刺激を受けるための選別と考えます。

■孔子曰く、益者三友、損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便倭を友とするは損なり。《季氏篇》

‥(訳)付き合って為になる友人が三種類、為にならない友人が三種類いる。為になるのは、剛直な人、誠実な人、博識な人である。逆に、易きにつきたがる人、人当たりの良い人、口先だけの人、これは付き合っても為にならない。

⇒上記の友について、益・損それぞれ対極の特徴を示して、為になる交友関係のポイントが示されています。

■子曰く、君子は食飽くことを求むるなく、居安きを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。《学而篇》

‥(訳)君子は、食べ物や住まいについて、ことさら贅沢を願わず、行動は機敏に、発言は慎重を旨とする。そして、立派な人物を見習って我が身を正すのである。こうあってこそ、学問を好む人間と言えよう。

⇒君子の食・住に対する志向、軽口否定の有言実行、前記同様に謙虚に人から学ぶ姿勢の大切さが説かれています(以下三項も同様の内容を指摘)。

■子貢、君子を問う。子曰く、「まずその言を行いて、而る後にこれに従う」。《為政篇》

‥(訳)子貢が君子の条件について尋ねた。孔子が答えるには、「発言する前に、先ず実行がなければならない。言葉は後からついていくものだ」。

■子曰く、君子は言に訥とつにして、行いに敏ならんことを欲す。《里人篇》

‥(訳)君子は能弁である必要はない。それよりも機敏な行動を心掛けたい。

■子曰く、君子はその言のその行ないに過ぐるを恥ず。《憲問篇》

‥(訳)君子は、言葉だけが先走って行動が伴わないことを恥とする。

【経営のプチ勘所vol.55:「論語」を読むシリーズ~第6回:学びについて~】

【⑥第6回:学びについて】

今週は「学び」の概論についてまとめてみました。コロナ禍のゴールデンウィーク、ステイホームの要請下で天気も不安定なので…日頃読めない分厚い本でも読んで過ごしませんか(写真:LIFE SHIFT等は以前読んだ本ですが、生き方の道標として良い本ですよ)。

■子曰く、性、相近し、習、相遠し。《陽貨篇》

‥(訳)生まれながらの素質に、それほど違いがある訳ではない。その後の習慣の違いによって、大きな差がついていくのである。

⇒孔子が生涯学習の祖であることは初稿に採り上げました。当時の学びの対象は歴史とされますが、そうした古の叡知を学べるのが書物です。私たちは義務教育以降、社会人になるまで目的や対象も曖昧なままプログラムとして学びを半強制的に強いられるため、学卒後に学習を続ける方は少ないのが実態でしょう。私は大学ゼミの恩師、三戸公先生に出会って学問の意味を教わりました。就職して多忙にかまけ、折角基礎を教わった経営学書から遠ざかっていましたが脱サラを機会にリセット、中小企業診断士の稼業でより良い支援ができるよう勉強を続けて来ました。今日振り返るに、この無形の積み重ねが自信にも繋がっていることを実感します。これからも孔子に習って、生涯にわたって勉学向上に努めて自分を向上させていきたいものです。以下では、「論語」の学びに係るフレーズを幾つか抜粋して紹介します。

■子曰く、学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ち殆あやうし。《為政篇》

‥(訳)読書にばかり耽って思索を怠ると、折角の知識が身につかない。逆に、思索にばかり耽って読書を怠ると、独断に陥ってしまう。

⇒三戸先生から経営学は人生の学ということを教わりました。また、読書で得た知識を実践して活かしてこそ価値があると、私の中小企業診断士としての而立を喜んで頂きました。三戸先生、孔子と人生の羅針盤たる師があることに感謝しています。

■子曰く、黙してこれを識しるし、学びて厭わず、人を諧おしえて倦まず。《述而篇》

‥(訳)黙々として思索を重ねる。学問に励んで飽きることがない。人に教えて疲れることを知らない。これ位のことなら、私のような人間にも無理なくできる。

⇒孔子の生き方が謙虚に語られていますが、何より学問を希求することが“楽しい”という境地(知<好<楽)が素直に表現されていて素晴らしい。

■子、子夏に謂いて曰く、「女なんじ、君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ」。《雍也篇》

‥(訳)孔子が子夏を戒めて、こう語った。「学ぶことの目的は、自分を向上させることにある。世間の評判ばかり気にするような人間にはなるな」

⇒学校教育や出世の階段で、とかく学問は競争選別の手段に成り下がってしまいがちですが、本当の目的についての孔子のストレートな指摘すっきりします。

■子曰く、古の学ぶ者は己のためにし、今の学ぶ者は人のためにす。《憲問篇》

‥(訳)昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする。

⇒私からすれば何れも昔ですが、学問に取り組む真の意義が語られています。

■孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学んでこれを知る者は次なり。困くるしみてこれを学ぶはまたその次なり。困しみて学ばざるは、民にしてこれを下となす。《季氏篇》

‥(訳)生まれながら知能に恵まれている者は最高である。学んで身につけた者はその次である。必要に迫られて学ぶ者は更にその次である。必要に迫られながら学ぼうとしない者は最低である。

⇒天賦の才のない私は“次”を目指して学習に励んでいます。経営者とお話する中で、“その次”の学びを促すのが我が務めと考えて指導させて頂いている手前、自ずと“下”の方とはお付き合いがありません。

■子曰く、学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る。《泰伯篇》

‥(訳)学問というのは、必死になって追いかけていくものだ。それでもなお目標を見失ってしまう恐れがある。

⇒学求姿勢についての語りですが、孔子のように“楽しい”境地ではないにせよ、自分を高める弛まぬ努力の必要性が指摘されています。

■子曰く、三年学びて、穀に至らざるは、得易からず。《泰伯篇》

‥(訳)三年もみっちり勉強すれば、誰でも仕官の口ぐらいは見つけることができる。

⇒私の場合も、大学ゼミに3年在籍、中小企業診断士資格取得に2年、凡人でもみっちり勉強を続ければそれなりの成果が得られることを実感します。長い人生の中の僅か3年、勉強するか!しないか?皆さんはどうお考えでしょう。

【経営のプチ勘所vol.54:「論語」を読むシリーズ~第5回:仁者とは~】

【⑤第5回:仁者とは】

中小企業診断協会より永年貢献表彰(2018年5月)

人を立て人を達す:子貢曰く、「如し博く民に施して、能く衆を済うあらば、何如。仁と謂うべきか」。子曰く、「何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜もそれなおこれを病めり。それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬えを取る、仁の方みちと謂うべきのみ」。《雍也篇》

‥(訳)子貢が尋ねた。「人民に遍く恩恵を施して民衆の安定を図る。如何でしょう、これなら仁者と言えるのではありませんか」孔子が答えるには、「そこまで行けば、仁者どころか、聖人である。尭舜のような聖天子でも、それができなくて思い悩んだのだ。仁はもっと身近にある。自分が立ちたいと思ったら、先ず人を立たせてやる。自分が手に入れたいと思ったら、先ず人に得させてやる。このように、身近なところから始めるのが、仁者のやり方なのだ」。

⇒自分本位に陥りがちな人間への戒めでもあり、素晴らしい経営者を目指す指針として自覚すべき行動原理だと考えます。斯く由私も、人として未熟な自分を戒める意味でも、出世競争の組織を脱して以降今日まで、中小企業診断士の教え子達に役員登用の道を譲り、自分は一会員として振る舞い続けることで自己抑制を貫いて仁者を目指しております。

仁の道:子夏曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁その中に在り。《子帳篇》

‥(訳)子夏が言った。幅広く学んでいよいよ志を固くし、疑問はあくまでも究明し、身近な体験の上に立って考えを深めていく。仁は、そういう中から芽生えてくるのだ。

⇒生涯教育の祖、孔子が説いた仁者実践の道程として自覚すべき在り方です。

:子貢問いて曰く、「一言にして以って終身これを行うべきものありや」。子曰く、「それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すなかれ」。《衛霊公篇》

‥(訳)子貢が尋ねた。「何か一言で生涯の信条としたいような言葉がありましょうか」孔子が答えるには、「恕であろうか。つまり、自分がして欲しくないと思っていることは、人にもしないことだよ」。

⇒最高道徳たる『仁』の高みに到達するのはやはり大変な修養が必要。そこで誰でも出来るもっと簡単な心掛けとなるのが『恕』という姿勢なのです。“自分が嫌なことは他人にしない”という自分基準で実践できるのが『恕』、これに対し『仁』は他人基準則ち相手への思いやりと受容あっての徳です。私は小さい頃、身勝手な振舞いをする度に祖母から口酸っぱく諭されてきたのがこのことでした。恐らく多くの皆さんの家庭でも年寄りから子供への躾として聞いたフレーズではないでしょうか。

【経営のプチ勘所vol.53:「論語」を読むシリーズ~第4回:知について(補講)~】

【④第4回:知について(補講)】

立教大学ゼミの恩師「三戸 公先生」の米寿記念講演会(2015年6月)

前回に続いて「徳」の三大要素の『知』について、直接的に徳としての位置付けを離れた言行も含めて『知』という言葉がどう扱われているかについても抜粋してみました。

■子曰く、由、女なんじにこれを知るを教えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ知るなり。《為政篇》

‥(訳)これ子路よ、そなたに「知る」とはどういうことか教えてあげよう。それは他でもない、知っていることは知っている、知らないことは知らないと、その限界をはっきり認識すること、それが「知る」ということなのだ。

⇒兎角知らないことも知ったかぶりをしてしまいがちですが、孔子は『知』に対する素直なスタンスが人として向上する礎となることを示しています。これに関連して、以下の名言(諺)があります。

■子貢問いて曰く、「孔文子は何を以ってこれを文と謂うか」。子曰く、「敏にして学を好み、下問を恥じず。ここを以ってこれを文と謂うなり」。《公冶長篇》

‥(訳)子貢が孔子に尋ねた。「孔文子は、どうして“文”という立派な諡おくりなをもらったのでしょうか」孔子が答えるには、「彼は元々頭が切れる上に、好学心に厚く、敢えて部下に教えを請うことも意に介しなかった。そういう人物であったので、立派な諡を貰うことができたのだ」。

⇒敢えて下問を恥じず…で知られる諺です。立派な人間は知らないことがあると、たとえ地位や年齢が下であろうと聞くことを恥じとしないのです。我以外皆我師は小説「宮本武蔵」を著した吉川英治の有名な言葉ですが、これに通ずる至言として座右の銘にされておられる経営者の方も少なくありません。

■子曰く、三人行けば、必ず我が師あり。その善なる者を択びてこれに従い、その不善なる者にしてこれを改む。《述而篇》

‥(訳)三人で道を歩いているとする。他の二人からは、必ず教えられることがある筈だ。いい点あればそれを見習えばいいし、ダメな点があれば自分を反省する材料にすればよい。

⇒上述の皆師についての孔子の見解です。教わるべきことは必ずしも良いことばかりではなく、反面教師とすれば際限なく学ぶ機会は拡がるもの。私は若い頃、戦時下で学ぶ機会を得ず育った凡庸無知な父親の一面を見下し、素直に言うことを聞かない反抗期を長く過ごしました。もっと早くに自分を修練して、学びの寛容さに気付ければ良い関係が築けたのにと残念に思うこと頻りです。

■子曰く、蓋し知らずしてこれを作る者あらん。我はこれなきなり。多く聞きてその善なる者を択びてこれに従い、多く見てこれを識す。知の次ぎなり。《述而篇》

‥(訳)世の中には、十分な知識もなく、直観だけで素晴らしい見解を打ち出す者もいるであろう。だが、私の方法は違う。私は、様々な意見に耳を傾け、その中から、これぞというものを選んで採用し、常に見聞を広げてそれを記憶に留めるのである。これは最善の方法ではないにしても、次善の策とは言えるのではないか。

⇒決して天才を自認していない孔子、その偉大なる凡人を形づくった次善の勉強方法。英才教育を受け東大・京大卒といったパワーエリートではない多くの皆さま、田舎者の凡人たる私も一押しの学びスタイル、孔子流非凡な『知』の修養法を会得してみませんか。

【経営のプチ勘所vol.52:「論語」を読むシリーズ~第3回:知と仁について(補講)】

【③第3回:知と仁について(補講)】

芸北聖湖畔(樽床ダム)の三才「天恩・地恩・人恩」記念碑

前稿の「徳」について、孔子は沢山の論点から繰り返し述べています。少し難しいので、今週と来週は少し補っておきたいと思います。

■知を問う。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂うべし」。仁を問う。曰く、「仁者は難かたきを先にして獲ることを後にす。仁と謂うべし」。《雍也篇》

‥(訳)弟子が「知」について尋ねた。孔子が答えるには、「人間としての義務を果たし、鬼神のようなものからは敬して遠ざかる。こういう生き方ができてこそ、知者と言えるのだ」。更に「仁」について尋ねると、孔子はこう答えた。「率先して困難な問題に取り組み、報酬は度外視する。こういう生き方ができてこそ、仁者と言えよう」。

⇒『仁』は孔子が最高道徳と位置づける規範で、一言で表現するなら“物事を健やかに育むこと”とされる。人として当然の義務を果す『知』を超えた高い領域にある『仁』を希求すること、これは私にとって強く意識する行動基準であり、実際に易きに就かず難事に取組み乗り越えて成長の糧にすることを心掛けて来ました。また、ご依頼が有れば極力応えること、その際金銭報酬の多寡を判断基準としたことがなく、財政的に苦しい方には行政の無料相談で対応することも多々あります。なお、知と仁について以下の表現もみられます。

■子曰く、仁に里るを美となす。択びて仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん。《里人篇》

‥(訳)仁に基づいて行動するのは美しい。だから、そういう行動を選択しない人間は、とうてい知者とは言えないのである。

⇒仁者としての行動の前提条件として、知者としての素養が身についていることが不可欠となります。その『知』について自覚を促すフレーズが次の通り。

■子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。《学而篇》

‥(訳)人から認めてもらえないと嘆く必要はない。むしろ、他人の真価に気付かないでいる自分の方こそ責めるべきだ。

⇒自分についての客観的評価をさて置いて愚痴ることに何の進化もありません。自分の不足や課題を見出し自覚して前向きな行動に繋げていくことこそ、知者のあるべき姿ではないでしょうか。