【⑤第5回:仁者とは】
■人を立て人を達す:子貢曰く、「如し博く民に施して、能く衆を済うあらば、何如。仁と謂うべきか」。子曰く、「何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜もそれなおこれを病めり。それ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬えを取る、仁の方みちと謂うべきのみ」。《雍也篇》
‥(訳)子貢が尋ねた。「人民に遍く恩恵を施して民衆の安定を図る。如何でしょう、これなら仁者と言えるのではありませんか」孔子が答えるには、「そこまで行けば、仁者どころか、聖人である。尭舜のような聖天子でも、それができなくて思い悩んだのだ。仁はもっと身近にある。自分が立ちたいと思ったら、先ず人を立たせてやる。自分が手に入れたいと思ったら、先ず人に得させてやる。このように、身近なところから始めるのが、仁者のやり方なのだ」。
⇒自分本位に陥りがちな人間への戒めでもあり、素晴らしい経営者を目指す指針として自覚すべき行動原理だと考えます。斯く由私も、人として未熟な自分を戒める意味でも、出世競争の組織を脱して以降今日まで、中小企業診断士の教え子達に役員登用の道を譲り、自分は一会員として振る舞い続けることで自己抑制を貫いて仁者を目指しております。
■仁の道:子夏曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁その中に在り。《子帳篇》
‥(訳)子夏が言った。幅広く学んでいよいよ志を固くし、疑問はあくまでも究明し、身近な体験の上に立って考えを深めていく。仁は、そういう中から芽生えてくるのだ。
⇒生涯教育の祖、孔子が説いた仁者実践の道程として自覚すべき在り方です。
■恕:子貢問いて曰く、「一言にして以って終身これを行うべきものありや」。子曰く、「それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すなかれ」。《衛霊公篇》
‥(訳)子貢が尋ねた。「何か一言で生涯の信条としたいような言葉がありましょうか」孔子が答えるには、「恕であろうか。つまり、自分がして欲しくないと思っていることは、人にもしないことだよ」。
⇒最高道徳たる『仁』の高みに到達するのはやはり大変な修養が必要。そこで誰でも出来るもっと簡単な心掛けとなるのが『恕』という姿勢なのです。“自分が嫌なことは他人にしない”という自分基準で実践できるのが『恕』、これに対し『仁』は他人基準則ち相手への思いやりと受容あっての徳です。私は小さい頃、身勝手な振舞いをする度に祖母から口酸っぱく諭されてきたのがこのことでした。恐らく多くの皆さんの家庭でも年寄りから子供への躾として聞いたフレーズではないでしょうか。